ヒューリスティクスがなぜあるのか、ということについて考えていく。簡単に言うと、価値として合理的ではない行動をとってしまう、目の前のものを高く評価し、遠くのものを低く評価するであったり、一度持ったものを手放したくない、であったり、同じ価値の増え方をしていても、低いが高いに変わる時より、高いがもっと高いに変わる時の方がうれしさが低くなったりする。今まで、「いやなんでそんなズレた考え方なんだよ、しっかり価値が高くなったことを高くなったと考えればいいのに。ヒューリスティクスが残っていると、得が損に変わってしまう。」と、ヒューリスティクスを忌むべきもの、排除すべきもの、その通りに感じない方がいいことだと思ってきた。そう思うことで、自分は真の意味で得をする、真の意味で本質を知ったものになる、と思い込んでいた。

この、価値と感じ方が違う、というものを、始めは不思議だなぁと遊びのように受け止めていた。けれども、いつしか知識を生かさないと損だ、知ることで引っかかってはいけない、ということを過剰に意識するようになり、ひっかからなかったことそれ自体に快感を覚えるようになっていた。でも、よくよく考えてみたら、自分の感覚にフタをして行動を決めることになることに、ここまできて気づいた。別に感覚の通りに生きて、損することもあるだろうけれども、人生ぶっ壊れるなんてことはそうそうない。思い付きで動くことを、悪だ悪だとやらない。あ、こう感じているなぁ、と自覚することを多くしていこう。縛りプレイは少数派の楽しみであり、せめてそれを自覚しよう。


頼もしい、一歩。


散歩はできたが、そこからスマホを見ていた。また陰謀論を深刻そうに語るyoutubeだ。なんで、こういうのに吸い寄せられるのだろう。まぁ10時くらいまで見ていた。そのあと玉子かけご飯というせつなめしの後に筋トレ、ポケモン、スプラ。頑張りの成果が出ているような出ていないような、その中で思ったのは、幸せというのは状態であって、「なる」というようなものではない、ということ。ある一部を切り取って幸せ、ということはもちろん言えるけれども、人生丸々鑑みて「幸せ」と言うことはほとんどの場合できない。それはただの状態を示しているだけの言葉であり、通してみたときになんて言えるか、という時に幸せ、というのは適していないかもしれない。表せていない、というか。生きてきていること自体が幸せなのに、それに加えて人生をなんと表せばいいのか、という問題というか。むしろ人生よ、こちらに何を期待しているのか、問いかけてみたい。

妻が突然クラフトに目覚めて、子どもの遊び道具を作り出した。その代わり、こちらが作った肉野菜炒めを食べ始めてくれないさみしさはあったが、とっても熱中して作っていたのでうれしかった。こうやって何かにハマる姿が見られると、なんとなく安心してもらっているようでうれしい。子どもも作っている段階から興味津々で、よっぽどうれしかったようだ。ずうっと遊んでいる。というか、今そろばんが200円で売っているらしい。100均の品ぞろえたるや。経済格差というのはどんどん埋まってきているなぁと思う。


頼もしい、一歩。


眠い。朝はスッキリ起きたけど夜は眠い。朝は家族で出発して、イオンをウインドウショッピングしたり、本を読んだりしていた。なんだか、あまりにも買わないように買わないようにとしすぎて、自然な経済活動というものがわからなくなっている。買う前に棚卸しをする、ないものをメモる、買わないのが最高の節約、それはわかるんだけれども、あまりにもそれを考えすぎるのも不自然になってしまうというか。バランスよく過ごす、というのも難しい。自然体がわからない、というのがあるあるらしい。

昼はそのまま出先で食べた。デザートで食べた、ビアードパパのシュークリームがおいしかった。外がサクサクのラスクみたいになっているのが特徴。絶対このサクサクの方がおいしいでしょ。ご褒美としてぴったりの一品だ。

ドラゴンズをしっかりと見ていたが、こういう時に限ってギリギリで負けてしまう。「ヒット2本でも勝てるんですね。」じゃないんだよ。もうこっちの勝ちってことでよくないですかね。

子どもが保育園で転んでアゴにキズをつけてきたが、それが1日たってうんできてしまっている。まあ医者に診せたのでいいかな、とは思うんだけれども、まぁ気になるは気になるよね。

毎日読んでいる『はらぺこあおむし』のTシャツに、子どもが早速反応を見せた。もはや見ると安心するところまできているだろうなと思う。あと、キャッチボールが成立するようになってきて、本当にすごいなぁと感じる。


頼もしい、一歩。

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