妻がありがとうと言ったこと。食べ物をおごってもらうこと。バスタオルを貸してもらうこと。家に入ること。運転してもらうこと。心配してもらうこと。

フードコートでラーメンを食べていると、アイスクリームを水のコップの中に入れた子どもが母に叱られていた。水がこぼれ、服をタオルで拭いている。その人に声をかけ、タオルを貸しましょうか?と妻が言う。断られる。特に感想も何も言わず、ただ、特に何も起きなかったかのように続きを食べていた。何で、話しかけたん?まったく理由がわからなかった。予想としては、①子どもがあまりにもかわいそうに感じたから。②親が動揺していて、あまりにもかわいそうだったから。③子どもの困っている声が気にさわったから。さあ、どれでしょうか。正解は②→①→③の順で話をして、子どもが一番かわいそうだと思っていたらしい。しかも、後々考えたら失敗だったなぁと思っていたらしい。

何でこれがイマイチと感じたのかというと、生活様式、ライフスタイルが異なっている人を助けても、イマイチ身にならないからではないか、と考えた。友人などなら、互いにライフスタイルもわかっているので、効果的な言葉がけになったりもするだろう。そして、この親たちはそもそもイライラしがちで、普段から子どもの失敗を追求するようなクセがあるように思う。そんな人に手助けをして、子どもの肩をもっても、残念ながら事態は進展しない。ホームレスの人に、家に住みましょう、と言うような、貴族の使用人にそんな生活は人権をはく奪されているのも同義です、と言うような、そんなぬかに釘なことだと感じる。


頼もしい、一歩。


はたきおとすのわざマシンのために、タネボーのえだを探しに行く。

1匹しか出ないで夜に。

キレて諦めた。


そしてオオニューラははたきおとすを覚えないらしい。

意味なさすぎる。

でもカウンターは覚えるらしい。


やったあ。


明日、遭遇パワーつけて一生分のタネボー狩りをしよう。


「言語化youtuber」という触れ込みのチャンネルがある。別にこの人がものすごい悪いことをしているわけではないことを断った上で、見ていてあまり気分がよくなかった。彼が主に上げているのはポケモンスリープ、身近なもの、ドラマなどの題材で、見る価値があるものもかなりある。なのだが、頭の中で言語かって何?確かに言語化しているけど、それってみんなやっているんじゃないの?例えるなら(とても難しいが)昔の行列のできる法律相談所が、全く法律を取り扱わなくなった嫌悪感に近いというか。他のもので言うと、家庭教師ヒットマンリボーンが完全にバトルに振り切っていった時の悲しさにも近い。

本来、言語化は仕事や表現の場において、相手に伝わるように表現するためのテクニックとしての言葉だ。言語化youtuberという看板を備え付けるには、その人自身が言語化するというよりは、言語化テクニックはどんなものがあるのか、に期待して見てしまう。先の例でも、法律を全く使わず、トークをメインにしていったり、ヘタレな主人公を変えていくことが物語の軸であったのに、自分軸がしっかりしてしまい、周りに振り回されない主人公に変わってしまい、成長のカタルシスというよりかは信念の確かめとしてバトルに勝利するだけ、本来持っていたコンセプトからは離れてしまっている。

しかし、はたしてコンセプトから離れた状態で流行る、というのはそんなに悪いことなのだろうか。そして、自分に生まれた嫌悪感は、なぜ生まれる必要があるのか?


頼もしい、一歩。

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