2024年05月


1日かけてポケモンをやった。おもしろい、けど勝ちきれない。いい試合、わかる、負けるよな。そんな試合ばかりだった。

散歩で神社に行って、ぼーっとした。雨の日だったけど、すれちがう人が多かったように感じる。長袖パーカーがちょうどよかった。

子どもも妻も風邪っぽくて、セキがどうも出ている。子どもはすぐ38℃に熱が上がってしまい、保育園を早く終わりにした。

ベビーリーフを毎日とっているが、けっこうな量とっているので、明日は休む日にした方がいいか。ギザギザした葉っぱは細くて食いでがないところがある。この先、更に暑くなったらもっとのびのび出てくるんだと思うと、楽しみである。夜のうちにすくすく伸びて、また大きくなってほしい。

昼はうどんをゆでたのと、みそ汁を作った。子どもはうどんをつるつるたくさん食べてくれるので、一安心である。つゆも全部自作しているので、よろこんで食べてくれるだけでうれしい。本を読んでくれという頼みと、よくある専用のペンで書くと出てくる、書いたり消したりできるアレを消して、という頼みと、かわいい頼みしかしない。かわいい。けして、以外にできた!という言葉も覚えたようだ。かわいい。

日銭を稼ぐだけが仕事の意味だが、普通好きでも嫌いでもない仕事をやるらしいが、自分の場合はマイナスの気持ちにさせられているようだ。本当は嫌いな場所に、自罰的に行っているように思う。理由はわからないが、ダメージを受けていることは確かだ。


頼もしい、一歩。


ムカつくムカつくムカつくムカつく。とにかくこのページの上にムカつくことをすべて書き出すことにした。スプラ3全く勝てないムカつく。キルされてんじゃねぇよ。こっちの味方になった時だけ手を抜いて、相手になった時だけマジになってんじゃねぇのか?回線、こっちの都合悪い時だけ見えなくなってんじゃねぇのか?ポケモン、受けパーティばっかマッチしてんじゃねぇよ。チオンブラッキークレセなんて影も形もなかったのに、そんなんばっかになってんじゃねぇかよ。ふざけんなよ。ほいで、同速負け、麻痺しびれなし、流星群外し、使ってる方が悪い以上に作動しなさすぎだろ。あーもうムカつく。手を机に叩きつけながら書いている。簿記、もうちょっとできてもいいんじゃねぇか?できないできないが長すぎるだろ。仕事、簡単な部署とか存在しないのおかしいだろ。なんでこんなに不安になんなきゃいけねーんだよ。暑さ。汗かいて過ごさなきゃいけないのおかしいだろ。野球、自分の応援してる時パッとしなさすぎるだろ。確率と体感のズレがありすぎるだろ。休むとか休まないとか、めっちゃどうでもいいわ。オレに聞くな。どいつもこいつもこっちの不利な方にしか動かない。なにがしてぇんだよ、バカタレが。運命、おかしいだろ、なーにが平等だ、そんなもんないじゃんかよ。頑張れば頑張るほど、裏切られる確率を上げるだけの行為だということに気づいた、あーやーめた。なーんもやんない方がいいわこんなの。イライライライラしてもし足りねぇよ。


頼もしい、一歩。 


1日中、自分は何もしなかったが、いろいろなところに行き、いろいろなものを食べた。やはりこれが基本姿勢になっていて、この子ども的メンタルをもちながらやっているが、成り立たなくなってきているのかもしれない。けど、そんな自分を認めてやりたい。それでもいいし、そこからステップアップしてもいいんだよ、って。

ニチアサを見た後、タイヤを交換した。ぼーっと見たり、自分で作業をしたり、を繰り返すと、この作業も有限のものなんだなぁと思いながらやった。

次は寿司屋に行った。思いつくものを順番に頼んで、がぶがぶ食べる。穴子がうまい。デザートもきちんと食べた。ほとんど無意識。とりあえずうまい。子どもはあまり食べなかった。かなりおやつを食べていたからかもしれない。

そのあとドライブ。母の実家の方向に突き進み、ギリギリ海が見えるところにタッチして、戻ってきた。途中でソフトクリームを買って食べた。めちゃくちゃうまかった。こういう気持ちに素直にそのまま生きる、ということが、普通なんだなぁ、なぜ逆張り、逆張りにならなければならなかったのだろう、と思う。誰もがいいな、と思うことを、当然自分も「なんだかいいな」と思いがちになるけれども、なぜかそれとは違う幸せがあるんじゃないかと思ってしまうのはなんでなんだろう。それも、細かく知ろう、というよりか、チューニングを合わせていく方法が知りたい。いや、本当はもう知っている、それに慣れることの方が必要なのかもしれない。子どもは睡眠時間がとんでもなく多くなって、まぁ1日の半分以上は寝ていた。車というのは寝心地がいいものなんだろうなと思う。


頼もしい、一歩。 

ヒューリスティクスがなぜあるのか、ということについて考えていく。簡単に言うと、価値として合理的ではない行動をとってしまう、目の前のものを高く評価し、遠くのものを低く評価するであったり、一度持ったものを手放したくない、であったり、同じ価値の増え方をしていても、低いが高いに変わる時より、高いがもっと高いに変わる時の方がうれしさが低くなったりする。今まで、「いやなんでそんなズレた考え方なんだよ、しっかり価値が高くなったことを高くなったと考えればいいのに。ヒューリスティクスが残っていると、得が損に変わってしまう。」と、ヒューリスティクスを忌むべきもの、排除すべきもの、その通りに感じない方がいいことだと思ってきた。そう思うことで、自分は真の意味で得をする、真の意味で本質を知ったものになる、と思い込んでいた。

この、価値と感じ方が違う、というものを、始めは不思議だなぁと遊びのように受け止めていた。けれども、いつしか知識を生かさないと損だ、知ることで引っかかってはいけない、ということを過剰に意識するようになり、ひっかからなかったことそれ自体に快感を覚えるようになっていた。でも、よくよく考えてみたら、自分の感覚にフタをして行動を決めることになることに、ここまできて気づいた。別に感覚の通りに生きて、損することもあるだろうけれども、人生ぶっ壊れるなんてことはそうそうない。思い付きで動くことを、悪だ悪だとやらない。あ、こう感じているなぁ、と自覚することを多くしていこう。縛りプレイは少数派の楽しみであり、せめてそれを自覚しよう。


頼もしい、一歩。


散歩はできたが、そこからスマホを見ていた。また陰謀論を深刻そうに語るyoutubeだ。なんで、こういうのに吸い寄せられるのだろう。まぁ10時くらいまで見ていた。そのあと玉子かけご飯というせつなめしの後に筋トレ、ポケモン、スプラ。頑張りの成果が出ているような出ていないような、その中で思ったのは、幸せというのは状態であって、「なる」というようなものではない、ということ。ある一部を切り取って幸せ、ということはもちろん言えるけれども、人生丸々鑑みて「幸せ」と言うことはほとんどの場合できない。それはただの状態を示しているだけの言葉であり、通してみたときになんて言えるか、という時に幸せ、というのは適していないかもしれない。表せていない、というか。生きてきていること自体が幸せなのに、それに加えて人生をなんと表せばいいのか、という問題というか。むしろ人生よ、こちらに何を期待しているのか、問いかけてみたい。

妻が突然クラフトに目覚めて、子どもの遊び道具を作り出した。その代わり、こちらが作った肉野菜炒めを食べ始めてくれないさみしさはあったが、とっても熱中して作っていたのでうれしかった。こうやって何かにハマる姿が見られると、なんとなく安心してもらっているようでうれしい。子どもも作っている段階から興味津々で、よっぽどうれしかったようだ。ずうっと遊んでいる。というか、今そろばんが200円で売っているらしい。100均の品ぞろえたるや。経済格差というのはどんどん埋まってきているなぁと思う。


頼もしい、一歩。

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