2024年06月


ギリ、さわやかに出発。下道でゆっくりドライブしながら大きい街へ。途中、一方通行迷路に入り込んだが、どうにか攻略した。大体の方角が合っていれば何とかなるものだ。子どもは寝てしまったが。とりあえず公園で、妻の作ってくれたおにぎりとミートボールと玉子焼きを食べる。外で食べるご飯というのは、なぜこんなにもおいしいのか。なんともまったりした時間になった。

ついにお目当てのジブリパーク展へ。いくつか展示があったが、正しくは宮崎吾朗展だった。それにしては、駿要素がちゃんとあったと言うべきか。ねこバスの巨大ぬいぐるみがあり、ちゃんと中に入ってふわふわなイスに座れたのはよかった。子どもも、ふかふかを味わってなかなか次に進めなかった。『アーヤと魔女』の3DCGの作り方は、すごいんだけどイラストボードの一次元創作の緻密さの方が心ひかれるものだったな。もちろん、リアル以上の背景にしているグラフィッカーもすごいんだけど、クリエイターの魂みたいなものを感じたかった。トトロの草壁さん家も、カオナシも、実際にいるのすごかった。子どもも、この辺はテンションが高かった。もちろんユバーバも。妻の最低限見たいものを見せられてよかった。

子どもが飽きてきて抱っこから降りたがるのと、暑さと、ジェラートをコーンで買って子どもが座らないので、車に座らせるためにジェラートが無限に溶けてくるのでイライラがMAXに。もったいない、と感じる心を捨て去り、無になって車に行く。濃厚さがなく、サッパリ感だけのアイスだったが、300円だからこんなもんか。

妻が夕飯にちょっといいものを、というのでスーパーへ。いろいろ買ってちょっとうれしかった。妻もたくさんドライブして、ドライブ欲を発散できたかな。


頼もしい、一歩。


朝、起きても、世界は特に変わりもしなかった。朝、パンと納豆を食べ、この日記のタイピングをひたすら行う。やっと、こういうことをしてもイラつかなくなってきた。心の平穏を保つための休憩時間だった、というわけか。ラジオを聞きながらやっているのも、やっと普段を取り戻した、というカンジだ。

昼はラーメンにほうれん草とネギとウインナーをぶちこんだ混ぜラーメンを食べた。野菜の入れすぎで、味が薄いような気がしたがまぁいいだろう。全部食べたので。

無職になった、一軒家、車、子持ちのyoutuberの、実際に無職になってみたレポートを聞くと、一度転職を経験したり、バイトをやってみたり、という経験自体が気持ちをラクにしてくれる、ということはそうなのかなぁと思う。いやー、転職、してみたいなぁ。人生の経験として、無敵の人になる条件として、もうやってみたらいいんじゃないかと思う。引っ越しとか転勤とかと同じで、それがやりたい人が集まってきて、必要なくなってきたら散っていく、ただそれだけなのだ。やろうと思えばハローワークに行ったり、タイミーやったり、なんでもできる。そう思うと、今の状況が別になんでもないような気がしてくるような、してこないような。

『ダンジョン飯』の続きを見ながらポトフを作ると、人間の生活というものが戻ってきたような気がしてくる。ガンダム1話だけ見たりもした。そしていつも通りに風呂と服薬。明日はまたピクニックに行こうとしている。やりたい気持ちが増えたらいいなぁ。


頼もしい、一歩。


夕飯のカレーをもう作っていたので、時間を考えずに歩いて図書館に行く。『生きているけど、死ねもしない』みたいなタイトルの本があるかなぁと思ったらちゃんとあった。大学教授になった哲学者の人が、4人の若者と対話する形式で流れていく。生きる気力が湧かないが、死ぬ気力もない、ひたすら問答を見ているだけで、自分がどうなるか、心が変わっているような気も起きない。今、ふり返ってみても、何も心に残っていないことが再確認できた。結局、生きていたら何かの目的や目標に当たる、というのが結論っぽいもので、もしこの考えを突き詰めたいのなら、大学教授になるしかない、ということでしか、記憶に残っていない。

『DEATH』という、イェール大学で23年間、最も評価の高い講義という触れ込みの本も半分くらい読んだ。死というものの、全てを考えた上での公平な考えを書き連ねられている。人生の意味については、後半で語られるようなので、もう少し読み進めなければならない。

夕食に玉子とウインナーを焼いて、子どもと妻に食べてもらう。なぜ、生きるのか。ちっぽけな人間の、ちっぽけなよろこびに、果たして意味はあるのか。今は、どう考えても意味がないとしか思えない。もちろん、幸せを追うこと、成長し続けることが意味あることだと、心から思えるのなら、それでいい。けれど今は、くだらないヒトの、くだらない生において、どんな生き方をしても同じだろ、と思う。料理も風呂掃除も頑張っている。生活を頑張れるのは、病気をどうにかすることができているからなのだろうか。とっとと、安定したい。自分を信じたい。


頼もしい、一歩。


自分は無気力、そこから脱出できていない。朝に水やり、カレー作りをした後、youtubeを流しながらぼーっとし続ける。昼寝もできない。午後には髪を切って、トマトとラベンダーを買って、植えた。心の中ではやる気がないが、表向きはきちんと動いていた。なんなんだろうな、やる気はないけど、動いている。それが良いも悪いも感じなくなってきている。子どもも妻も、元気に動いている。それでいいではないか。それ以上、望むものはないので、仕事なんてやらなくてもいいんじゃないのか。本当に何がしたいのか、自分の心に聞いてもわからない、わからない、わからない。何がしたいのだろうな。 


「働く」というのは、端(はた、となり)を楽(らく)にする、という意味があるらしい。なぜ、自分が働くことに対してこんなにも考えなければ自分の存在にOKを出せないのか。なんかもう、疲れた。むいてもむいてもむき終わらない、タマネギのようだ。もう疲れた。誰と戦っているのだ。頑張ることの価値を、無、としたところで、楽しくもなければ、何かを生み出せるわけでもなければ、子どもが楽しくなるわけでもなければ、妻が頑張らなくてよくなるわけでもない。何がしたいのか。


頼もしい、一歩。 

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