人の上に立つ人、というのを考えている。最近、「人に上も下もないけど、人の立場には、上と下がある。」という言葉について考えている。確かにこの視点はぼくには全くなく、人には上も下もない、だから全ての職業は平等だし、部長も社長も係長も、同じである、同じでなければならない、そう思っていた。しかし、どう考えても日本社会はそんなものではない。社長は偉いし、大学教授は偉いし、OBOGは偉いし、オリンピックメダリストは偉いし、先生は偉い。それをいつ習得するかと言えば、もう物心ついた時にはなんとなく、そうしなければならないだろうと思ってしまっている。だから、親か、環境で、もうすでにわかってしまうのだ。
その目に見えない「偉い」と「偉いも偉くないもあったものじゃない」の間で、ぐらんぐらんに揺れているのが自分、と言えよう。近年、弱者男性とか、お客様クレームとか、社会的弱者が社会的強者に歯向かう言葉がよく使われている。立ち向かう、が正しいのかもしれないが、まぎれもなく歯向かっているだけ、それによって強者がその立場を本当に全てなくすことはない。様々な運の組み合わせによって、立場の上下は生まれる。それを否定しようとすると、どうしても噛み合わない部分が出てくる。責任のとれない者に責任を負わせることはできないからだ。
やるべきは、立場の否定ではなく、立場の上下を認め、それに対する自分の在り方を決めることである。上の立場になった時、そこから逃げるか、受け流すか、誰かにあげるか、なかったことにするか、他の人にわかってもらうか。どれがいいか、全部試してみよう。
頼もしい、一歩。