カテゴリ: 日記


朝、起きても、世界は特に変わりもしなかった。朝、パンと納豆を食べ、この日記のタイピングをひたすら行う。やっと、こういうことをしてもイラつかなくなってきた。心の平穏を保つための休憩時間だった、というわけか。ラジオを聞きながらやっているのも、やっと普段を取り戻した、というカンジだ。

昼はラーメンにほうれん草とネギとウインナーをぶちこんだ混ぜラーメンを食べた。野菜の入れすぎで、味が薄いような気がしたがまぁいいだろう。全部食べたので。

無職になった、一軒家、車、子持ちのyoutuberの、実際に無職になってみたレポートを聞くと、一度転職を経験したり、バイトをやってみたり、という経験自体が気持ちをラクにしてくれる、ということはそうなのかなぁと思う。いやー、転職、してみたいなぁ。人生の経験として、無敵の人になる条件として、もうやってみたらいいんじゃないかと思う。引っ越しとか転勤とかと同じで、それがやりたい人が集まってきて、必要なくなってきたら散っていく、ただそれだけなのだ。やろうと思えばハローワークに行ったり、タイミーやったり、なんでもできる。そう思うと、今の状況が別になんでもないような気がしてくるような、してこないような。

『ダンジョン飯』の続きを見ながらポトフを作ると、人間の生活というものが戻ってきたような気がしてくる。ガンダム1話だけ見たりもした。そしていつも通りに風呂と服薬。明日はまたピクニックに行こうとしている。やりたい気持ちが増えたらいいなぁ。


頼もしい、一歩。


夕飯のカレーをもう作っていたので、時間を考えずに歩いて図書館に行く。『生きているけど、死ねもしない』みたいなタイトルの本があるかなぁと思ったらちゃんとあった。大学教授になった哲学者の人が、4人の若者と対話する形式で流れていく。生きる気力が湧かないが、死ぬ気力もない、ひたすら問答を見ているだけで、自分がどうなるか、心が変わっているような気も起きない。今、ふり返ってみても、何も心に残っていないことが再確認できた。結局、生きていたら何かの目的や目標に当たる、というのが結論っぽいもので、もしこの考えを突き詰めたいのなら、大学教授になるしかない、ということでしか、記憶に残っていない。

『DEATH』という、イェール大学で23年間、最も評価の高い講義という触れ込みの本も半分くらい読んだ。死というものの、全てを考えた上での公平な考えを書き連ねられている。人生の意味については、後半で語られるようなので、もう少し読み進めなければならない。

夕食に玉子とウインナーを焼いて、子どもと妻に食べてもらう。なぜ、生きるのか。ちっぽけな人間の、ちっぽけなよろこびに、果たして意味はあるのか。今は、どう考えても意味がないとしか思えない。もちろん、幸せを追うこと、成長し続けることが意味あることだと、心から思えるのなら、それでいい。けれど今は、くだらないヒトの、くだらない生において、どんな生き方をしても同じだろ、と思う。料理も風呂掃除も頑張っている。生活を頑張れるのは、病気をどうにかすることができているからなのだろうか。とっとと、安定したい。自分を信じたい。


頼もしい、一歩。


自分は無気力、そこから脱出できていない。朝に水やり、カレー作りをした後、youtubeを流しながらぼーっとし続ける。昼寝もできない。午後には髪を切って、トマトとラベンダーを買って、植えた。心の中ではやる気がないが、表向きはきちんと動いていた。なんなんだろうな、やる気はないけど、動いている。それが良いも悪いも感じなくなってきている。子どもも妻も、元気に動いている。それでいいではないか。それ以上、望むものはないので、仕事なんてやらなくてもいいんじゃないのか。本当に何がしたいのか、自分の心に聞いてもわからない、わからない、わからない。何がしたいのだろうな。 


「働く」というのは、端(はた、となり)を楽(らく)にする、という意味があるらしい。なぜ、自分が働くことに対してこんなにも考えなければ自分の存在にOKを出せないのか。なんかもう、疲れた。むいてもむいてもむき終わらない、タマネギのようだ。もう疲れた。誰と戦っているのだ。頑張ることの価値を、無、としたところで、楽しくもなければ、何かを生み出せるわけでもなければ、子どもが楽しくなるわけでもなければ、妻が頑張らなくてよくなるわけでもない。何がしたいのか。


頼もしい、一歩。 


考えが深まっているとは思えない。お金の心配をなくすために節約を頑張った。その結果、誰がやっても同じ結果にたどり着くことがわかり、じゃあ何のために働き、何のために生き、何のために死ぬの?金のために働く、金を得ることが、今はもうすでにできている、じゃあ何のために成長するの?学ぶの?生きるの?そもそも、金、というのも人間の作り出した幻の概念であり、それをたくさん稼ぐと偉い、まあ偉いまで行かなくても、わりと何でもできる、幻を取引して、命という幻と引き換えている。当然、自分も幻としての存在だ。いてもいなくても、代わりはいて、いてもいなくても代わりはない。自分の感覚は自分だけのモノ、というが、その自分自身が、幻である金の上に成り立っている、当然幻であることは、疑いようのないことである。なんで、みんなこんなことを疑問に思わず、元気に過ごせるのだろうか。不思議。自分が心に穴が開いている存在だと、なぜ疑うことなく生きていられるのか。普段は徹底的に自分が無の存在であることなど、疑問にも思っていなかった。やりたいことがある気がしていたし、欲しいものがある気がしていたし、頑張れそうな気がしていた。今は、それら全てが幻想でしかなかったと思える。地位も、富も、名声も、人気も、努力も、力も、価値は全て同じもの、あっても、なくても、全ては幻の上の存在であるので、そのどれもが当然、幻である。そんな世界に存在し続けることの、意味って何だろう?もうクリアしても、つまりおわりにしてもいいんじゃないの、ってね。


頼もしい、一歩。 

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