カテゴリ: 日記


『筋肉は最大のソリューションである』を読む。これはある意味宗教本である。まぁいろいろと理屈をこねて筋トレをすすめることにいとまがない。これがひたすら書いてある。人間には、宗教が必要であることは、現代は強調されることが少なくなったが、歴史を見ていくとどう考えても宗教があった時間が長かったことからもわかる。現代であっても、結局、個々人の心の拠り所がいろいろなところに散っていっただけで、自分より大きい存在を感じて、心を無にしてそれと向き合う時間は必要である。老子の言葉を見るようにして2日目、これが自分にとっての礼拝である。ほら、子どもですらぬいぐるみを毎日持って、心の拠り所にしている。日本のステキなアニミズム、これが心の支えになってくれていればうれしい。

水虫、きちんと毎日薬を塗り続けている。爪はイマイチよくなっているかわからないのだが、皮膚の方ははっきりと臭いがなくなって効果があるのを感じる。医者にパッと言って、あっさり診てもらえたのはラッキーだった。朝イチで行くよりも、10時11時めがけていった方が結局早く呼ばれるのではないかと思う。水虫こそ、成果が見えないけれども続けていることが重要なことの一つである。こういう手合いに負けるのはなんだか悔しいし、自分の中でも得意なことでもある。見えなくなってもやる、ただ、やる。今やるか、水を飲んでからやるか。ただ、それだけである。【その気持ちでやると、精神を病むぞ。】


頼もしい、一歩。


人の技、というものと、心に訴える力、というものの比較について考える。『蜜蜂と遠雷』では、明らかに技術という枠を超えた才能、「鳴らす力」というものに言及されている。今日、カラオケに行ったが、そこでは「正しく歌えるか」というよりも、「自分の中で歌に合わせて鳴らせるか」ということに注目したり、楽しんだりしている。スマブラもやっているが、ただ単にコマンド入力しているだけなのだが、魂の一振りのデンタルワイパー、ガーキャン上Bで、安定行動している中にはない、反転空後をヒットさせたバーストでの、魂の昇華を感じる。西武ライオンズは、8連敗の後に1勝、その前の試合で中心選手の涙のインタビューがあり、その上で臨んだ試合で勝つ、これも魂を感じる。

魂だけでは勝てない。技術があっても勝てない。技術は必要。では、確かに感じる魂とは何なのだろう?答えは全くないが、少なくとも、魂はないと、おもしろくはない。意外と技術が高くてもつまらない試合もある。でも、おもしろい=魂をかけても、負ける時は負ける。そもそものレベルが高い場合はなおさらだ。では、技術と魂、どちらを高めるのか?また、それを高めるために効果がある方法は何なのだろうか?

......どうしてこんなにやる気なんだろう。これは、老子の言葉と書をセットにした本を見たからかもしれない。ただ、なんとなくだが、闇雲に、がむしゃらに、がんばろうというカンジはしない。ただ、毎日本を読み、簿記をやりこみ、ゲームで遊ぶ。それが幸せだ。


頼もしい、一歩。


マックで『蜜蜂と遠雷』を読む。いやー、第三審査、めちゃくちゃアツい展開だ。天才と準天才と秀才の、それぞれの目線から見たコンクールへの取り組み、それぞれのコンテスタントの見え方、そして審査員の目線と、ものすごいヒリつく芸術と勝負の世界を描き切っている。これをかっこいい、かわいいにキャラを変えれば、少年ジャンプにもっていっても成功するだろう。それくらい、普遍性があって、盛り上がって、流れとして自然だ。何だったらマンガ化してやりたいくらいだ。

毎日、『ずん喫茶』を子どもといっしょに見ている。コーヒーを軸に、店、人のよさ、歴史、穏やかさを同時に感じることができる、めずらしい番組だ。自分が食べて飲んで、ゆーっくりしている気分にもなれる。ずーっと続いてほしいなぁ。ナポリタンがあまりにもおいしそうだから、自分でも作ってみた。ケチャップと、バターを後入れで入れると、コクがマシマシになるのでとってもおすすめ。レトルトのパスタを卒業するにはうってつけのメニューなのだが、誰もナポリタンから料理をやってみろとは言わない。焼いたり揚げたりするより、何倍も再現性があるのに、なぜなのだろうか。

久しぶりにちょこっとポケモンができた。気持ちの上では確実によくなってきているのは明らかだ。妻は逆に、あまり調子がよくないらしい。全てはバランスで、全てが上向きになることはないのかもしれない。


頼もしい、一歩。


一日中眠かったけど、簿記をやっていた。会計を締めるという作業を延々と。ちょっと税関係の扱いがあやしい。まぁやりこなせばいい。

「時間とは、空間との関係によって成り立っているものであり、ただ、今の連続であり、間違っても前に進んでいるものではない。」という考えを見た。実際に観測できるのは、今しかないのでどうしてもそこにとらわれてしまいがちだ。それを点ではなく面で見ることで、真実が現れる、というか面でしか本当の「人生」というものはとらえることはできないのではないかと思う。点は、判断するにはあまりにも心もとないものだ。しかし、面は、点の連続であるので、点が全く重要でないと言われれば、それはウソになる。どちらも、見失わないことが大事だが、特に面は見えにくくなりやすいので、面に注目するくらいがちょうどいい。知恵袋で、21才で若い子としか結婚できる気がしないという男がいるが、これは20年以上続いている企業がつぶれない、と思って就活するようなもので、たくさんのポイントがある内の一つを拡大して見てしまう人間の性が出た例だと思う。これをゼロにすることは、意識的には難しいが、ふり返った時に、おかしな意見にとらわれていたなぁと思うことは往々にしてある。質問をした人も、多分忘れるころに若い人以外でもいいな、と思うだろう。「理想を下げて手に届くところに下げないといけない、これは絶望じゃない、手に届くところに下げて手に入れる可能性を上げることは希望と言うんだよ、希望と絶望が逆だよ!」と叫ぶ岡田斗司夫が好きなのだが、これと近い感覚だろうか。


頼もしい、一歩。


妻がありがとうと言ったこと。食べ物をおごってもらうこと。バスタオルを貸してもらうこと。家に入ること。運転してもらうこと。心配してもらうこと。

フードコートでラーメンを食べていると、アイスクリームを水のコップの中に入れた子どもが母に叱られていた。水がこぼれ、服をタオルで拭いている。その人に声をかけ、タオルを貸しましょうか?と妻が言う。断られる。特に感想も何も言わず、ただ、特に何も起きなかったかのように続きを食べていた。何で、話しかけたん?まったく理由がわからなかった。予想としては、①子どもがあまりにもかわいそうに感じたから。②親が動揺していて、あまりにもかわいそうだったから。③子どもの困っている声が気にさわったから。さあ、どれでしょうか。正解は②→①→③の順で話をして、子どもが一番かわいそうだと思っていたらしい。しかも、後々考えたら失敗だったなぁと思っていたらしい。

何でこれがイマイチと感じたのかというと、生活様式、ライフスタイルが異なっている人を助けても、イマイチ身にならないからではないか、と考えた。友人などなら、互いにライフスタイルもわかっているので、効果的な言葉がけになったりもするだろう。そして、この親たちはそもそもイライラしがちで、普段から子どもの失敗を追求するようなクセがあるように思う。そんな人に手助けをして、子どもの肩をもっても、残念ながら事態は進展しない。ホームレスの人に、家に住みましょう、と言うような、貴族の使用人にそんな生活は人権をはく奪されているのも同義です、と言うような、そんなぬかに釘なことだと感じる。


頼もしい、一歩。

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