500ページを超えるこの本を読み切った感動で、この書くことにする。この本のあらすじとしては、ピアノコンクールに出場する4人の登場人物を軸に、それぞれの心情を描いている。

恩田陸のもつ傾向として、心の中の描写が「個人的に」退屈である。他に『天地人』『まひるの月を追いかけて』の2作を手に取ったが、それは非常に退屈に感じてしまった。

なぜなのかと分析しようとしてみる。恩田陸は客観的事象を描写することには非常に長けている作家さんだと思う。薫風の吹き抜ける大草原、厳かな山岳、おおらかさと荒々しさを同居させている海、こういった描写があるたびに、ふぅっとため息をつきたくなる。

それが人物の内面の描写になると、客観的立場に立ちすぎて、解釈を一定にしたすぎて、なんだかもう疲れてくる。それは、ONEPIECEの回想が何話にも渡って行われて、今何に立ち向かっているのかわからなくなってしまうような、FF13のような一本道、操作よりムービーシーンの長いゲームのような、涼宮ハルヒの憂鬱のエンドレスエイトのような、必要なのはわかる、わかっているんだけど読者の勢いをそいでしまう何かがある。

本著はこの2つの恩田陸の特性とミラクルに合致した作品であり、間違いなく読んだ方が読書経験としてよいと感じた。

客観的事象を描写する美麗さが、ピアノコンクールの演奏時の美麗さにそのまま直結している。私の経験上、本著のような音楽経験は全くないのだが、それぞれのコンテスタントの描写は、なぜか魂に伝わる。ピアノの繊細さ、鳴り方の雄大さをを事細かに語ってくれる。ピアノを弾いている時の心理描写がほとんどなく、他の誰かから見た評価というのが重要で、これは小説だからこそできた表現である。このことにより、それぞれのコンテスタントのすばらしさを読者に効果的に伝えることができている。

人物の内面を語る長さについて、この攻略法が、多様な主人公を用いる、という物量での解決を行っている点が、本当に唯一無二であると感じている。普通、物語というのは明確にそれを語らせる主人公が設定されていて、それが複数いるということ自体が物語のウリであることさえある。多くても2、3人だと思うのだが、本著は、三枝子、マサル、塵、奏、明石、亜夜、これらの視点を巧みに使い分けなければならないので「一人の登場人物の内面を延々と語る」のが不可能になった。それをすると、誰かの視点が不要なものになってしまい、それは本著のコンセプトに反するのである。

しかし、そんな作品の中で、あえて主人公は誰かを探ってみることにする。そうすることで、また一つ感動の要点のようなものが掴めるような気がするのである。

以下は莫大なネタバレを含むので、注意して閲覧してください。
















① 栄伝亜夜
一番、「この人のためのストーリーである」と言い切りやすいのは、亜夜だろう。幼少期に挫折を味わい、今回のコンテストに参加することで、塵、マサルと会い、そのかかわりと、何より演奏に触れて、幼少期の挫折を乗り越えてこれからの未来に明確につながったコンテスタントである。

登場人物の関係図を作った時に、亜夜を軸に関係が作られていることがわかる。塵とマサルは互いにひかれあうものはないし、明石と亜夜の関係は生まれれど、明石とそれ以外のコンテスタントのかかわりはほとんど描かれていない。

亜夜を引き上げた塵とマサルの圧倒的な実力は、眠っていた亜夜の才能を再び呼び起こすには必要だった。それは、ナサニエルと三枝子の会話から簡単にわかる。

心のコンプレックスが圧倒的に解消された、その一人である。


② マサル
一方、このコンプレックスの解消、という面においては、マサルもこの作品内で大きく成長している。もともと才能がありながら、その努力の過程が多く描かれたマサルは、最終的に作曲、新時代のショパンになる、という自分の目指す方向性をこの作品の中で見つけることになる。

もともと自分の中にくすぶっていた火が、このコンテストを通してちゃんと燃やすべきだ、燃やす環境は、自分で切り開くべきものなのだ、そんな心の流れをたどる。

その心の流れは、亜夜との再会、塵との出会いによるものであり、なんだかんだ心境の変化が描写された人物の一人である。


③ 明石
出ました、社会人の味方。実力自体は高いものではないのかもしれないが、日本の大人から見ると、この明石に共感するところが非常に大きいのではないのだろうか。

雅美のインタビューの中で、生活者の中の音楽をやりたい、と語っているように、ほぼ自分の方向性があって、でも舵を切り切れない自分の中の葛藤と戦う様が、やはり現代日本の読者の中にあるものとほとんど同じなのではないだろうか。

情報はある。情熱もある。可能性もある。信じ切る力だけがない。そうやってくすぶる人のなんと多いことか。

明石にとって、このコンクールに出場すること自体がチャレンジであり、カンフル剤であり、勇気づけであった、それは明白である。


④ 塵
この物語の中で、塵が蜜蜂であり、遠雷である。それは間違いない。塵が戦っているのは、師匠との約束である。この物語の中で、塵は、登場人物を媒介にして夢と対話し続ける。生け花、調律師、他の人物が関わらない事象ともかかわって、音楽を外に連れ出す、音楽を外に還元することの真実を追求し続ける。

圧倒的な実力と、これまでの音楽にとらわれることのない演奏で、批評家たちの意見を真っ二つにする様子は、明らかに雷であり、この物語にアクセントとして、大きな広がりをもたらしている。


⑤ 三枝子
コンテスタント外から、この三枝子を取り上げる。他のコンテスタント外の人物はあくまでコンテスタントにぶら下がる形で存在しているのだが、三枝子のみ、始めと終わりを司る重要な人物であるため書いておく。ナサニエルとの関係において、この作品内で心情が変化する。それはユウジの形見である塵の演奏であったり、コンテスタントの進化であったり、飲み会の度にこまめに心情が描写されていくところに過程が現れている。


とりあえず、候補を出した。以下は、物語における主人公の役割について考えていく。

【心情が語られているのが主人公?】

小学校中学校で学習する物語や、夏目漱石「こころ」など、徹底的に心理描写が主人公に限られている作品は多くある。基本的に主人公の語りで進み、不思議な行動の確信が犯人から語られることも、この主人公イメージに近い。

ただ、『蜜蜂と遠雷』に置き換えると、6人以上の人物に当てはまってしまうのでうまくいかない。


【タイトルに書かれている者が主人公?】

『桃太郎』『ドラえもん』『暴れん坊将軍』『名探偵コナン』『ハリー・ポッター』などたくさんの作品が、主人公となりそうな人物の名前をタイトルに据えている。前述したように『蜜蜂と遠雷』は塵を表していることは当然だ。

しかし、この論には当てはまらない作品もたくさんある。ミスリードというやつである。

先に挙げたものの内、『ドラえもん』は、実はドラえもんの心理描写よりものび太の心理描写の方が多いような気がしてくる。映画版『ドラえもん』は、必ず『のび太の』と、タイトルにのび太が付く。

つまり、『ドラえもん』の主人公はのび太なのだが、『その話で活躍するもの』をただタイトルに据えている場合がかなりある。

このパターンの作品は、パッと思いつくものが本当にたくさんある。『ドラゴンボール』で主人公が悟空、『シャーロック・ホームズ』で語りが助手のワトソン君、『鬼滅の刃』で主人公が炭次郎、『エヴァンゲリオン』で主人公が碇シンジ、『機動戦士ガンダム』で主人公がアムロ・レイなど枚挙にいとまがない。

もちろんドラゴンボールやガンダムや日輪刀は、物語を構成する重要なアイテムではあるが、もちろん心情なんてものは存在しない。

タイトルが塵を現わしている、じゃあ主人公は塵だ!と結論づけるのは早計である。

『蜜蜂と遠雷』における塵というのは、主人公なのか。それともキーアイテムなのか。


【それぞれの登場人物が我々に語りかけるもの】

それぞれの人物は、ある存在を代表しているのではないか、ということは以前日記に書いた気がする。

一番わかりやすいのは明石で、才能を称え、また自分も同じラインに立てるように努力する存在である。

一人の天才につき、何人もの明石のような存在が発生すると考えると、もうあらゆるコンテンツにおいて明石がいるのではないか、というくらいに普遍的な存在と言ってよい。

勉学、仕事、スポーツ、、、大体明石のような状態を通っている気がする。

亜夜は、才能があるはずなのに一度否定され、それを取り除くためにもがく。

マサルは、音楽を理解するということは、どういうことなのかわからずにいる。

塵は、師匠との約束に縛られながらも自由を求めてさまよう。


よーく見ると、少しずつ事情がずれているのだが、皆才能があり、努力してきた過去は同じである。

いくつか例えていく。わからなかったらwikipediaでも見てください。

『ドラゴンボール』
明石……クリリン
亜夜……ベジータ
マサル……フリーザ
塵……悟空

『ONE PIECE』
明石……ナミ
亜夜……サンジ
マサル……ゾロ
塵……ルフィ

『NARUTO』
明石……サクラ
亜夜……ナルト
マサル……カカシ
塵……サスケ

『名探偵コナン』
明石……毛利蘭
亜夜……灰原哀
マサル……服部平治
塵……新一(コナン)

『テイルズオブジアビス』
明石……ティア
亜夜……ルーク
マサル……ヴァン
塵……アッシュ


パッと考えたので、異論は大いに認める。
しかし、こう考えると明石の「実力こそあるが傍観者」というポジションのヒロイン力というのはかなり高いものがある。

つまり明石は共感を集めるが主人公らしくないということがわかった。

あと、塵だけが奇想天外、行動が読めない、と思っていたがマサルも近いものがあるように感じた。そもそも日本から出て行って、音楽界の中ではかなりの王道であるが、話の中では特殊すぎる経歴を持っているので、主人公というよりかは、『その話で活躍するもの』のカテゴリーに近い。

そうなってくると、素直に亜夜が主人公なのか。それが一番わかりやすいような気がしてくる。特殊な経歴なのだが、他の人物と違ってどん底からのスタートで、支援してくれる他者や、わかってくれる周囲によって引き上げられていく様子は、間違いなく主人公のそれであるように感じる。


大穴の三枝子という線を捨てることになってしまうが、仕方がない。


【最後に】

始めに「あえて」とつけたが、恩田陸は主人公を決めずに書き始めたのかもー、という考えがずーっとあるのは書き添えておく。中立の視点でピアノコンクールを描く、ということを決めて、ただただ人物がそれに従って動いていく。この見方ができるのも、作品のすばらしさの一つであると思う。コンクールに翻弄される人々、という見方である。

客観的事象を描くことが得意な著者なだけに、これを意図的に狙ったような気もしてくる。これでタイトルを『芳ケ江国際ピアノコンクール』にしないのは、やはりセンス、なのだろう。

でも、こんなストレートな結論で終わりにしてよいのでしょうか。また考えたら記事にしたいと思います。

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