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ビジネス書に対するツッコミをひたすらに聞いている。やはり、「大体の問題は、突き詰めると人間関係である」という通り、大昔に考えつくされたことを現代っぽく、さも新しく思いつきました、という風に書くだけでしかなく、老子にもブッダにも孔子にも劣っている......とは言えないが、勝ってはいない。これにツッコミを入れるのは、なんだか、何か成長しなければならない自分に、大きな墓標を立てるような気がして、半分爽快である。その先には、「世界の真理は、退屈で地味」という結論があるのだろうなと思う。

仕事は、仕事量が少ない。出勤はしているのだが、今までに比べての実働がかなり少ない。よくよく考えてみれば、それで別にいい。もらった仕事をやる、それが趣味みたいなものである。ケータイの透明ケースの中のポケカを、イルカマンに変えた。ナイーブでいい、ナイーブでいいのである。別にウェブタやクイタンでも、仕事量はゼロではないのだから。何だったら、ビルドアップで積んでいくことだってできる。マイティをまだ隠していていいのだ。求められる時に出ていけば、それでマイティである。吹雪でもジェッパでもレンチでもアイヘでもカマしてやればいい。インファの身の削り方だけはごめんだが。

週末が楽しみだが、週末にしなければならないことも、またない。それがちょうどいいのかもしれない。何事も、始まりの近くにいるのがよい。足全体を地につける、それくらいがちょうどいい。


頼もしい、一歩。


特に書くことはない。そんな日もひねり出す。それが日記である。

暑い。とにかく暑い。なぜエアコンがない廊下をこんなにウロウロしなければならないのか。朝に、突然大雨が降って、その後にカンカンに照ったので、とんでもないモヤモヤに包まれる。湿度がヤバいのだ。完全に熱帯のそれである。

なかなか仕事ってこんなんだったっけ?という感覚が抜けない。もっと全方向にケアして、何が起こってもどうにかなるようにすべてを配置しておくことが至上の命題であった気がするが、気が抜けてしまいそうで困る。だが、まぁできているので、何も心配ではない。普通に会話してもいいのだが、どうなのだろうか。長らく休職していた人間の扱いというのは。次、酒を飲んでからだな。

ポケモンをほぼ卒業している。アニポケに残っているだけ、くらいに思っておく。今はレギュHになり、ガチグマカイリューの時期だが、実はガブ、サーフゴー、アシレーヌ、マスカーニャあたりが強いのではないかと思う。その実践も、週末に絞ろう。人生は盛大なヒマつぶしなのだが、はたしてめちゃくちゃやりたいことがポケモンなのか、はなはだ疑問であるからだ。


頼もしい、一歩。


野球って1年間140試合やる。もちろん分析が進むなどはあるのだろうが、140試合同じ作戦で戦う必要はない。ないのだが、必ず変える必要もまた、ない。ザクレイが言っていたが、格ゲーがジャンケン構造になった時にはじめて、読み合いというものが始まるわけで、めっちゃ強いグーでパーに勝っているなら、ずっとグーを出し続けるのが最善手になる。つまり、読み合いになるのにも、ある程度のレベルの高さが必要になるのだ。何が言いたいのかというと、同じことをやり続けることを合法化する言い訳はたくさんあるから、恐れずにワンパターン戦法を使おう、ということだ。ワンパターンが磨かれて、とてもよいものになることもある。

毎年毎年同じようなことをしているが、全く成長していない。もしかして、一時期の「圧倒的成長」というキャッチフレーズが流行ったのって、みんなは圧倒的成長なんてしていないから流行ったのだろうか。そして、圧倒的成長やてしなくても仕事になるし、損をしたのは圧倒的成長しなければダメになる、と自己否定に打ちのめされた、自分を含む一部の人間だけなのだろうか。なんだか割に合わないなぁ。人間らしところを見せてもよい、とはよく言うが、みんな圧倒的生産力を手に入れるために勉強していたのではなかったのか。少なくともぼくはそうだった。どうやら、いつの間にか貪欲に貪欲を重ねる時代は過ぎ、定常とか、恒常とか、そういう言葉が似合う時代になったらしい。


頼もしい、一歩。


うん、人間というのは成長しないものだ。「若者はちょっと怒られると辞める」「エクセルは再利用できるように組め」とか、「怒るな、叱るな、ほめて伸ばせ」とか、さんざん言われているいることを平気でみんなやっている。さんざん言われているのは、みんなできないけど、こうなったらいいなぁと思っている程度のことであって、実際にこれらを全てこなすニュータイプが現れるとは思ってもいないのだろうな。みんなわざとかってくらいには、小さいことにはリアクションを起こさない。これはわざとなのかわざとじゃないかわからないが、行動できていないのはどちらにしろマイナスだということだ。じいさんばあさんでさえそんなもんなんだから、自分も平気な顔で生活してよいのだ。

友人にSwitchを買うべきか買わざるべきかを問われている。なんだかSwitchの後継機がもう出るというウワサなので、ホイっと買うのも違うなぁと。じゃあSwitchLITEを買うかと言われれば、せっかく友達と遊びやすいSwitchの特徴を殺すことになってしまう、と。メモしていて思った、流行に乗り遅れると、こういうことになってしまうんや。まあ、好きなものを買ってつまらなくても、そんなには後悔しない。好きなモノをガマンすることもないなということだ。


頼もしい、一歩。

ある人は言う。「成長のない人間はばかだ。」ほとんどの人はそういう風には成長しているに見えない。自分は「成長しなければ価値がない、以前と、何かを変えなければ続けている意味がない」、そう呪いをかけ続けてきた。しかし、そう思い続けている人は少数派か、実際に行動の変化につなげられている人が少ないだけか、とにかく前はこうした、それをずーっとブラッシュアップしていない人というのは、たくさんいるのだ。そんな人がたくさんの中で、ほとんどすべてのモノを変え続けようという人はなかなかいるものではないし、変え続けようという周りに変える気がないという引き留め役がいる状態では、それはそれは変え続けることは面倒な気がする。ぼくは毎年、イチから変えて思考を止めることなく、上昇していきたかったのだが、あまりにも大変すぎるのだ。

断っておくが、これは堕落とか、怠惰とか、そういう言葉ではない。強いて言うなら「足並みをそろえる」とか「レベルを変えない」ということに近い。もっともっと急成長することが、できないわけではないが、非常に強い抵抗力が働くということがわかった。また観察を続けるが、自分も大したことはないが、周りは輪をかけて大したことはない。タダの人間なのだから、自分はもう少し堕天した方がよいのだ。

そういうのを、短く表した言葉がある。「上善如水」である。水のように、上から下に慣性をつけて流れるのである。

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