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もう1か月半経ったので、よいかと思い、まとめてみる。

※ネタバレは演出についてのみで、物語の核心に触れる内容や、展開の考察はありません。


5月の中旬ぐらいかな、近所の映画館にマリオムービー2を見に行った。

マリオムービー1は、子どもが録画やアマプラでよく見ていて、見すぎて逆に見たくなくなるくらい、くり返し見ていた。ぼくも、まぁ3回くらいは真剣に見たが、ストーリーよりもアクションを楽しく見る映像だな、と思っていた。

そもそもこの記事でも、物語の核心や、複線の提示と回収なんて書くつもりがない。このマリオムービーの本質が、アクションであるからだ。


久しぶりに映画館で見られそうだな、という映画で、楽しみに見に行った。

妻は、映画館と言えばポップコーンらしく、Lサイズの3人で食べても食べきれなさそうな、バケツ一杯みたいな量のポップコーンを頼みやがった。結果から言えば、子どもが映画を通してずーっと食べて食べ切ったのでよかったのだが。


さて、映画本編に入る。子どもは人生初の映画にもかかわらず、しっかりと映像を楽しんだ。ヨッシーのギャグ、クッパの熱唱、マリオの告白、子どもでも理解しやすい、かつ落ち着くヒマの少ないアクションで、とにかく集中力を切らさず鑑賞しながら、油断なくポップコーンを食べ続けていた。


一方のぼくは、とにかく原作際現にいとまがないことに感動していた。
ピーチ城を地面ごともいで連れ去るクッパメカ、マリオ3の飛行船BGM、ヨッシーのタマゴが割れるSE、ウッキィがやたら悪いことをする、スターリング?ギャラクシーのコントローラー振って飛ぶ☆のSE、ピーチとキノピオでマムーの相手をする、しまいにはマリオオデッセイの恐竜からヨッシーが背中にベビィマリオを乗せてスーパースコープ型の銃を撃つなんて、本当に「マリオあるある」の悪魔合体みたいなシーンだ。


各ハードのマリオを、それなりに通ってきたぼくはもはやアクションよりもノスタルジー、時代劇モノを見ているような錯覚に陥る。「そうだよね、そうなるよね」みたいな、製作者と鑑賞者の、共通理解がこんなにもキレイに取れている感覚。とても気持ちがよかった。


個人的に、より「マリオあるある」に特化したのは2である。マリオに接さない人生を送ってきた人は、1を2回見た方がよい。なんというか、1には「人間あるある」「パパママあるある」「ヒーローあるある」みたいな部分が割と入っているが、2はそこすら切り取り、「マリオあるある」に特化していっている印象を受ける。


さて、ここで一度、自分の精神世界から映画館に戻る。

周りには、自分の家族の他に、当人としては大枚をはたいたのであろう、チャリで来たたくさんの小学生や、不思議なおじいさんおばあさん、初デートドキドキカップル、たくさんの属性の人が来ている。

まったくう、マリオもやったこともなさそうな人たちが、ぼくみたいにノスタルジーに浸れるほどの解像度で、この映画を楽しめるのかい?


・ヨッシーとルイージが、マリオを茶化して、映画館が笑いに包まれる。

うーん、解釈一致。ヨッシーって、しゃべれないから何やらせても「アリ」なんだよな。


・ウッキィが悪いことをして、「おいおい」みたいな雰囲気が映画館を包む。

ウッキィはヨッシーアイランドでもスーパーマリオ64でも、しょうもないことしかしない。残念ながら当然。


・ピーチが傘を使ってマムーと戦う。スピード感に映画館が圧倒される。

スマデラでも、DSのピーチ主役のゲームでも、「魔法と傘」はピーチ、という雰囲気になったなぁ。あとおまけに空中浮遊も。


スタッフロール、皆がとっとと立ってしまう中、小さい子どもを連れたぼくは、明るくなるまで焦らずに待ちながら考える。



え?すごくね?これ?



そもそも、子どもが楽しく観られる映画というのは、限られている。
子どもは前提知識が少ない。
子どもは人生経験も少ない。
子どもは話が長いと集中力を切らす。

パッと思いつくのはドラえもん、ディズニー。多分、コナンをここに入れることはギリギリできない。


これらの子どもが楽しく観られる映画、というのは、基本的には支える存在がないと存続できない。ドラえもん、ディズニーを真剣に観ているのも、大勢の子どもと、真剣に観ているオタクである。


ひるがえって、マリオはどうか。


1981年の「ドンキーコング」(スマブラのハンマーBGMのゲーム)が初登場である。(wikipediaより)
そこから、「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」が出たのは、2023年。

途中で例の映画が出たのには目をつぶるとして、今回のイルミネーションと共作の映画を出すまでに、44年かかっている。

さすがに、「マリオはワシらが育てた」と言っても、過言ではないよな。

「マリオを産んだ任天堂」、そして「マリオを楽しく遊んで育てた、現在のおじさんおばさん」、これらが響き合って、この映画が出ている。


マリオは、全くもってゲームの文脈のキャラクターで、「顔の向きがわからないから」帽子をかぶり、「色数に限りがあるから」オーバーオールを着、「3D空間を自由に走り回らせたいから」はねマリオや3段ジャンプを習得し、「重力を制御する演出でジャンプで踏みにくいから」スピンを習得する、ゲームがなければ追加されないアクションを、追加され続けている。


それらが、映画の文脈でこんなにも活かされている。そして昭和に生まれたそれが、令和の、現代の子どもを、こんなにも楽しませている。


ここに、壮大な歴史のダイナミズムと、「プレイヤー」として参加した映画館に座っている自分を、感じずにはいられなかった。



オレたちが支えたマリオが、後世の子どもたちを支え、またその後の子どもたちを支えるのだ。



スタッフロールが終わり、何食わぬ顔で「マリオの映画、楽しかったね」と、自分の子どもに声をかける。

ゲームも、映画も、「作品」であり、人間が生きるのに必須ではない。放っておいたらなくなってしまうもののように思う。

だからこそ、マリオが楽しまれること自体が、ぼくらの誇りなのだ。

それが、いつの時代の少年少女にも、伝わるものであってほしい。



ありがとう、おめでとう、任天堂。ぼくらの歩んだ「ゲームオタク道」は、きちんと先につながっているみたいだよ。


「時をかける少女」って、おもしろくね?と思ったら、SFの大家筒井康隆の原作であり、キャラデザはエヴァンゲリオンだし、もうほとんど細田守の力ではないんじゃん。いや、こういう人たちを集められること自体が、監督の力なのではないかとも思う。

なんだか、何もしないことが難しい。ヒマな時って、何をしていたっけ。アニメや映画を観ていたんだっけ。って忘れる程度の、「したいこと」なのだなぁ。


頼もしい、一歩。


『かぐや様は告らせたい』を今更見ている。ほぼこち亀で、無限に話を作れる設定であることがわかり、逆に見なくていいんじゃないかとさえ思えてくる。そして、実写版の平野翔はマジでハマり役だと思う。なぜ、本人はラッパーみたいなことをやり始めてしまったのか。ずっと白銀役みたいな、シリアスなギャグをやり続ける人でよかったのにな。さんま御殿でいじられていたのは、みんな忘れないぞ。

プライドって、捨て得だな。


頼もしい、一歩。


仕事があまりにも押しに押したので、一周回って休みをムリヤリとった。その午後、『ルックバック』を観た。観てよかった。

まず、この映画を観た初めの感想は、「田舎の絵がめちゃくちゃキレイ」なことである。

漫画が題材の作品というのはいくらかある。特にぼくが見ていたのはジャンプでの「バクマン」か。しかし、ルックバックは、それよりももっと普遍的、人間関係や、過去への戻れなさというのがテーマのように思える。

だからこそ、漫画の表現は「あるある」を踏襲する形であり、学校の描写、田舎の描写、翻って都会の描写がものすごく丁寧であるということが、映画後半の流れに効いてくる。


【ルックバック感想あるある】

ぼくがこの映画を観る前の評判は、

・演出がすごい、これは映画の作り方自体に変革を起こすだろう。
・才能が、さらに上の才能と出会った時の、何とも言えない悔しさ、ままならなさがすごい。
・クリエイターは、絶対に一回は見た方がいい。

というようなものだった。

ぼくも、明らかにそっち(オタク気質の陰キャ)であるので、なんというか、もっとジメジメした、又吉直樹の『火花』みたいな、結局何物にもなれない悲哀、みたいなものを想像して入っていった。

当然、それを覆してくれたので、どう覆ったかを書いていく。


【結局、どこがよかったのか】

つまるところ、「圧倒的普遍性」がこの映画のキモであり、「才能がある/ない」「元気がある/ない」「人気がある/ない」「忍耐力がある/ない」なんてのは、スパイスですらない。

では、どこに普遍性があるのか。それはかの大きな出来事が起きた後、京本の部屋の前で、小学6年生の時に描いた漫画が、ジャンプから出てきた時。

この瞬間、この漫画を描いた時から、今までの、過去を振り返る。


そして、藤野は思う。


この映画を観ている人も思う。



「おまえなんでそんなこと続けてんの」



『ルックバック』本編では、なんだかよくわからない力で、京本の助けを借りながら、藤野はその答えにたどり着く。結局、生活は続いていく。

藤野の後悔と、京本の想いが、「漫画」を軸にクロスして、藤野のとった解釈はあえて言葉には出てこない。が、その解釈を観客に想像させるのも、またをかし、である。


しかしながら、「この映画を観ている人」の、答えは出ないままである。


多分、30才くらいまでに、負けず嫌いの人は、少なくとも何度かは考えたことがあるだろう。「いやいやなんでこんなこと続けてんの。」

藤野が「漫画なんてさぁ、つまんないし、めんどくさいし、描かない方がいいよ」と、つぶやく。これはまったくもって、現実の社会を生きる我々が、くり返しつぶやくことになる台詞である。

「じゃあなんで続けなきゃならないの。」

この理由を胸を張って言えるようになった人には、この『ルックバック』という作品は、とても陳腐で、怠惰で、退屈に見えるだろう。

しかし、実際にはそんな人はいない。

ある時、胸を張って理由を述べることができても、時がたてば、そんなものは平気で忘れてしまう。

藤野も、大きな出来事があったから、一度そう思っただけで、また「なんで漫画描いてるんだっけ」と思う時が来るのだろう。

その、よりどころを忘れてしまうことを、「人間の弱さ」ととるのか、「人間の強さ」ととるのか。

そして、あなたには、そのよりどころはあるのか。

人生の宿題になるような問いを、出すだけ出されて、日常に戻される。



ここまでセットで、『ルックバック』である。



【蛇足】
話の構成が「君の膵臓を食べたい」に似ているような、そうでもないような。
しかし、別の味がするので、「君の膵臓を食べたい」を読んだことがある人にも、とてもおすすめです。


朝はゆっくりパソコンいじり。アバストアンチウイルスと、ウインドウズのバージョンアップを2時間かけて見守っていたが、何も進まなかった。できたのはポケモンの座学ぐらいか。あと、クロームブックがどれかといえば欲しいな。5万もあればいいか。

「君たちはどう生きるか」を録画で見る。最初がピーク、ということだったが、単純に見るときの時間が昼寝時だったせいで、海に出て、かわいい生き物がペリカンに食べられたところで意識がなくなり、次に起きた時には終わっていた。とてもいい映画だったな。

カフェインを抜こうと思っていたので、これで眠くなってしまうのは仕方がないなぁと思う。むしろきちんと昼寝できたのでうれしかった。録画を消していないので、また今度見ようかな。

夕方は、普通にご飯食べて、風呂入って、眠くてこの日記を書いている。まあまあ、これが幸せなのだ、とても満足だった。こういう時は、とっとと寝るに限るな。


頼もしい、一歩。

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