ヒューリスティクスがなぜあるのか、ということについて考えていく。簡単に言うと、価値として合理的ではない行動をとってしまう、目の前のものを高く評価し、遠くのものを低く評価するであったり、一度持ったものを手放したくない、であったり、同じ価値の増え方をしていても、低いが高いに変わる時より、高いがもっと高いに変わる時の方がうれしさが低くなったりする。今まで、「いやなんでそんなズレた考え方なんだよ、しっかり価値が高くなったことを高くなったと考えればいいのに。ヒューリスティクスが残っていると、得が損に変わってしまう。」と、ヒューリスティクスを忌むべきもの、排除すべきもの、その通りに感じない方がいいことだと思ってきた。そう思うことで、自分は真の意味で得をする、真の意味で本質を知ったものになる、と思い込んでいた。
この、価値と感じ方が違う、というものを、始めは不思議だなぁと遊びのように受け止めていた。けれども、いつしか知識を生かさないと損だ、知ることで引っかかってはいけない、ということを過剰に意識するようになり、ひっかからなかったことそれ自体に快感を覚えるようになっていた。でも、よくよく考えてみたら、自分の感覚にフタをして行動を決めることになることに、ここまできて気づいた。別に感覚の通りに生きて、損することもあるだろうけれども、人生ぶっ壊れるなんてことはそうそうない。思い付きで動くことを、悪だ悪だとやらない。あ、こう感じているなぁ、と自覚することを多くしていこう。縛りプレイは少数派の楽しみであり、せめてそれを自覚しよう。
頼もしい、一歩。
この、価値と感じ方が違う、というものを、始めは不思議だなぁと遊びのように受け止めていた。けれども、いつしか知識を生かさないと損だ、知ることで引っかかってはいけない、ということを過剰に意識するようになり、ひっかからなかったことそれ自体に快感を覚えるようになっていた。でも、よくよく考えてみたら、自分の感覚にフタをして行動を決めることになることに、ここまできて気づいた。別に感覚の通りに生きて、損することもあるだろうけれども、人生ぶっ壊れるなんてことはそうそうない。思い付きで動くことを、悪だ悪だとやらない。あ、こう感じているなぁ、と自覚することを多くしていこう。縛りプレイは少数派の楽しみであり、せめてそれを自覚しよう。
頼もしい、一歩。