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いや、めちゃくちゃ気分いいぞ。受診してみたが、わりと堂々としゃべることができた自覚がある。8月末に働く気が満々だが、それを階段にして転職したい。視野狭窄に陥っている10年だった、それを清算するために、数年がかりでかからなければならないだろう。それこそが大いなるヒマつぶしというやつだ。

カラオケを一人でやるなら、漫喫に行った方が安いんじゃないかと考えた。調べてもいないが。2時間ドリンクバー付き770円を超えるパフォーマンスを出すことはなかなか厳しいのではないか。でも、一人でしかやらないと考えたら、確実に安くできるはずなんだよな。ちょっと調べてみるか。

昼はパスタ。ペペたま。久しぶりにやったらおいしかった。最後の味付けで、チーズにバターに乳化以上に濃い味になりそうなものマシマシにしたら、ちゃんとおいしくなってよかった。付け合わせに、キュウリともやしとツナのナムルを作ってみた。ツナ、こういう使い方が正しい。子どものころ、マヨネーズをかけてツナのまま食べることを繰り返していたので、具材の一つとしてつかうとこんなにもおいしいのか、と感じた。キュウリの消費も、これで増えていくだろう。

図書館に行き、トマ・ピケティの翻訳本のさらに翻訳した本みたいな本を読む。ピケティの新規性は、「みんながなんとなく思っていた資本主義の限界」について、ここ100年の調査をもとに語ったところにあるようだ。つまり、ピケティの本を前提にしてぼくの卒論を読めば、なおさら成長より大切な何かがあることに気づけるのではないのだろうか。まぁ、ぼくだけ知っていればよいことなのだけれど。


頼もしい、一歩。


500ページを超えるこの本を読み切った感動で、この書くことにする。この本のあらすじとしては、ピアノコンクールに出場する4人の登場人物を軸に、それぞれの心情を描いている。

恩田陸のもつ傾向として、心の中の描写が「個人的に」退屈である。他に『天地人』『まひるの月を追いかけて』の2作を手に取ったが、それは非常に退屈に感じてしまった。

なぜなのかと分析しようとしてみる。恩田陸は客観的事象を描写することには非常に長けている作家さんだと思う。薫風の吹き抜ける大草原、厳かな山岳、おおらかさと荒々しさを同居させている海、こういった描写があるたびに、ふぅっとため息をつきたくなる。

それが人物の内面の描写になると、客観的立場に立ちすぎて、解釈を一定にしたすぎて、なんだかもう疲れてくる。それは、ONEPIECEの回想が何話にも渡って行われて、今何に立ち向かっているのかわからなくなってしまうような、FF13のような一本道、操作よりムービーシーンの長いゲームのような、涼宮ハルヒの憂鬱のエンドレスエイトのような、必要なのはわかる、わかっているんだけど読者の勢いをそいでしまう何かがある。

本著はこの2つの恩田陸の特性とミラクルに合致した作品であり、間違いなく読んだ方が読書経験としてよいと感じた。

客観的事象を描写する美麗さが、ピアノコンクールの演奏時の美麗さにそのまま直結している。私の経験上、本著のような音楽経験は全くないのだが、それぞれのコンテスタントの描写は、なぜか魂に伝わる。ピアノの繊細さ、鳴り方の雄大さをを事細かに語ってくれる。ピアノを弾いている時の心理描写がほとんどなく、他の誰かから見た評価というのが重要で、これは小説だからこそできた表現である。このことにより、それぞれのコンテスタントのすばらしさを読者に効果的に伝えることができている。

人物の内面を語る長さについて、この攻略法が、多様な主人公を用いる、という物量での解決を行っている点が、本当に唯一無二であると感じている。普通、物語というのは明確にそれを語らせる主人公が設定されていて、それが複数いるということ自体が物語のウリであることさえある。多くても2、3人だと思うのだが、本著は、三枝子、マサル、塵、奏、明石、亜夜、これらの視点を巧みに使い分けなければならないので「一人の登場人物の内面を延々と語る」のが不可能になった。それをすると、誰かの視点が不要なものになってしまい、それは本著のコンセプトに反するのである。

しかし、そんな作品の中で、あえて主人公は誰かを探ってみることにする。そうすることで、また一つ感動の要点のようなものが掴めるような気がするのである。

以下は莫大なネタバレを含むので、注意して閲覧してください。
















① 栄伝亜夜
一番、「この人のためのストーリーである」と言い切りやすいのは、亜夜だろう。幼少期に挫折を味わい、今回のコンテストに参加することで、塵、マサルと会い、そのかかわりと、何より演奏に触れて、幼少期の挫折を乗り越えてこれからの未来に明確につながったコンテスタントである。

登場人物の関係図を作った時に、亜夜を軸に関係が作られていることがわかる。塵とマサルは互いにひかれあうものはないし、明石と亜夜の関係は生まれれど、明石とそれ以外のコンテスタントのかかわりはほとんど描かれていない。

亜夜を引き上げた塵とマサルの圧倒的な実力は、眠っていた亜夜の才能を再び呼び起こすには必要だった。それは、ナサニエルと三枝子の会話から簡単にわかる。

心のコンプレックスが圧倒的に解消された、その一人である。


② マサル
一方、このコンプレックスの解消、という面においては、マサルもこの作品内で大きく成長している。もともと才能がありながら、その努力の過程が多く描かれたマサルは、最終的に作曲、新時代のショパンになる、という自分の目指す方向性をこの作品の中で見つけることになる。

もともと自分の中にくすぶっていた火が、このコンテストを通してちゃんと燃やすべきだ、燃やす環境は、自分で切り開くべきものなのだ、そんな心の流れをたどる。

その心の流れは、亜夜との再会、塵との出会いによるものであり、なんだかんだ心境の変化が描写された人物の一人である。


③ 明石
出ました、社会人の味方。実力自体は高いものではないのかもしれないが、日本の大人から見ると、この明石に共感するところが非常に大きいのではないのだろうか。

雅美のインタビューの中で、生活者の中の音楽をやりたい、と語っているように、ほぼ自分の方向性があって、でも舵を切り切れない自分の中の葛藤と戦う様が、やはり現代日本の読者の中にあるものとほとんど同じなのではないだろうか。

情報はある。情熱もある。可能性もある。信じ切る力だけがない。そうやってくすぶる人のなんと多いことか。

明石にとって、このコンクールに出場すること自体がチャレンジであり、カンフル剤であり、勇気づけであった、それは明白である。


④ 塵
この物語の中で、塵が蜜蜂であり、遠雷である。それは間違いない。塵が戦っているのは、師匠との約束である。この物語の中で、塵は、登場人物を媒介にして夢と対話し続ける。生け花、調律師、他の人物が関わらない事象ともかかわって、音楽を外に連れ出す、音楽を外に還元することの真実を追求し続ける。

圧倒的な実力と、これまでの音楽にとらわれることのない演奏で、批評家たちの意見を真っ二つにする様子は、明らかに雷であり、この物語にアクセントとして、大きな広がりをもたらしている。


⑤ 三枝子
コンテスタント外から、この三枝子を取り上げる。他のコンテスタント外の人物はあくまでコンテスタントにぶら下がる形で存在しているのだが、三枝子のみ、始めと終わりを司る重要な人物であるため書いておく。ナサニエルとの関係において、この作品内で心情が変化する。それはユウジの形見である塵の演奏であったり、コンテスタントの進化であったり、飲み会の度にこまめに心情が描写されていくところに過程が現れている。


とりあえず、候補を出した。以下は、物語における主人公の役割について考えていく。

【心情が語られているのが主人公?】

小学校中学校で学習する物語や、夏目漱石「こころ」など、徹底的に心理描写が主人公に限られている作品は多くある。基本的に主人公の語りで進み、不思議な行動の確信が犯人から語られることも、この主人公イメージに近い。

ただ、『蜜蜂と遠雷』に置き換えると、6人以上の人物に当てはまってしまうのでうまくいかない。


【タイトルに書かれている者が主人公?】

『桃太郎』『ドラえもん』『暴れん坊将軍』『名探偵コナン』『ハリー・ポッター』などたくさんの作品が、主人公となりそうな人物の名前をタイトルに据えている。前述したように『蜜蜂と遠雷』は塵を表していることは当然だ。

しかし、この論には当てはまらない作品もたくさんある。ミスリードというやつである。

先に挙げたものの内、『ドラえもん』は、実はドラえもんの心理描写よりものび太の心理描写の方が多いような気がしてくる。映画版『ドラえもん』は、必ず『のび太の』と、タイトルにのび太が付く。

つまり、『ドラえもん』の主人公はのび太なのだが、『その話で活躍するもの』をただタイトルに据えている場合がかなりある。

このパターンの作品は、パッと思いつくものが本当にたくさんある。『ドラゴンボール』で主人公が悟空、『シャーロック・ホームズ』で語りが助手のワトソン君、『鬼滅の刃』で主人公が炭次郎、『エヴァンゲリオン』で主人公が碇シンジ、『機動戦士ガンダム』で主人公がアムロ・レイなど枚挙にいとまがない。

もちろんドラゴンボールやガンダムや日輪刀は、物語を構成する重要なアイテムではあるが、もちろん心情なんてものは存在しない。

タイトルが塵を現わしている、じゃあ主人公は塵だ!と結論づけるのは早計である。

『蜜蜂と遠雷』における塵というのは、主人公なのか。それともキーアイテムなのか。


【それぞれの登場人物が我々に語りかけるもの】

それぞれの人物は、ある存在を代表しているのではないか、ということは以前日記に書いた気がする。

一番わかりやすいのは明石で、才能を称え、また自分も同じラインに立てるように努力する存在である。

一人の天才につき、何人もの明石のような存在が発生すると考えると、もうあらゆるコンテンツにおいて明石がいるのではないか、というくらいに普遍的な存在と言ってよい。

勉学、仕事、スポーツ、、、大体明石のような状態を通っている気がする。

亜夜は、才能があるはずなのに一度否定され、それを取り除くためにもがく。

マサルは、音楽を理解するということは、どういうことなのかわからずにいる。

塵は、師匠との約束に縛られながらも自由を求めてさまよう。


よーく見ると、少しずつ事情がずれているのだが、皆才能があり、努力してきた過去は同じである。

いくつか例えていく。わからなかったらwikipediaでも見てください。

『ドラゴンボール』
明石……クリリン
亜夜……ベジータ
マサル……フリーザ
塵……悟空

『ONE PIECE』
明石……ナミ
亜夜……サンジ
マサル……ゾロ
塵……ルフィ

『NARUTO』
明石……サクラ
亜夜……ナルト
マサル……カカシ
塵……サスケ

『名探偵コナン』
明石……毛利蘭
亜夜……灰原哀
マサル……服部平治
塵……新一(コナン)

『テイルズオブジアビス』
明石……ティア
亜夜……ルーク
マサル……ヴァン
塵……アッシュ


パッと考えたので、異論は大いに認める。
しかし、こう考えると明石の「実力こそあるが傍観者」というポジションのヒロイン力というのはかなり高いものがある。

つまり明石は共感を集めるが主人公らしくないということがわかった。

あと、塵だけが奇想天外、行動が読めない、と思っていたがマサルも近いものがあるように感じた。そもそも日本から出て行って、音楽界の中ではかなりの王道であるが、話の中では特殊すぎる経歴を持っているので、主人公というよりかは、『その話で活躍するもの』のカテゴリーに近い。

そうなってくると、素直に亜夜が主人公なのか。それが一番わかりやすいような気がしてくる。特殊な経歴なのだが、他の人物と違ってどん底からのスタートで、支援してくれる他者や、わかってくれる周囲によって引き上げられていく様子は、間違いなく主人公のそれであるように感じる。


大穴の三枝子という線を捨てることになってしまうが、仕方がない。


【最後に】

始めに「あえて」とつけたが、恩田陸は主人公を決めずに書き始めたのかもー、という考えがずーっとあるのは書き添えておく。中立の視点でピアノコンクールを描く、ということを決めて、ただただ人物がそれに従って動いていく。この見方ができるのも、作品のすばらしさの一つであると思う。コンクールに翻弄される人々、という見方である。

客観的事象を描くことが得意な著者なだけに、これを意図的に狙ったような気もしてくる。これでタイトルを『芳ケ江国際ピアノコンクール』にしないのは、やはりセンス、なのだろう。

でも、こんなストレートな結論で終わりにしてよいのでしょうか。また考えたら記事にしたいと思います。

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日中、short動画をぐるぐる見ていた。しんじろーの理不尽にもキレるガノンからしか得られない栄養素がある。友人がこれと同じキレ方をする。自分はやらないなぁと思うが、なんとなく飽きない。どう見ても自分がヘタなだけなのにキレるので、もう何のためにゲームやっているのかわからない。ただの修行にしかなってないと思う。「やってないやってない」「今絶対押したって!」「そんなんズルじゃん」など、相手ではなくゲームに対してキレているのが本当に滑稽である。それでもやめずに続けているのだから、たいしたものである。

毎日やりたいことが多すぎる。ポケモンスマブラスプラ日記老子知恵袋料理歯磨き子どもとのかかわり。意識しないとやらなくなってしまいそうなものばかりだ。人の人生などヒマつぶし、それは趣味でも仕事でも家庭でもそうなのだが、せっかくだから前の自分を追い越したいという気持ちがないと、続くものも続くわけがないということがわかってきた。成長という気持ちは、欲という意味ではもたない方がいいが、より多くの道を取り入れる、という意味ではもった方がよいことなのかもしれない。

『学問のすすめ』を読んでいるが、学問をする一般の人へ学問をすすめる本であって、学問を教える者についての言及は今のところほとんどなされていない。した方がよさそうだ、そこについての疑問はもっていないので、別の本を読むべきであろうか。知りたいのは、教授法の変遷であって、学問の広まり方には、あまり興味はない。


頼もしい、一歩。


『筋肉は最大のソリューションである』を読む。これはある意味宗教本である。まぁいろいろと理屈をこねて筋トレをすすめることにいとまがない。これがひたすら書いてある。人間には、宗教が必要であることは、現代は強調されることが少なくなったが、歴史を見ていくとどう考えても宗教があった時間が長かったことからもわかる。現代であっても、結局、個々人の心の拠り所がいろいろなところに散っていっただけで、自分より大きい存在を感じて、心を無にしてそれと向き合う時間は必要である。老子の言葉を見るようにして2日目、これが自分にとっての礼拝である。ほら、子どもですらぬいぐるみを毎日持って、心の拠り所にしている。日本のステキなアニミズム、これが心の支えになってくれていればうれしい。

水虫、きちんと毎日薬を塗り続けている。爪はイマイチよくなっているかわからないのだが、皮膚の方ははっきりと臭いがなくなって効果があるのを感じる。医者にパッと言って、あっさり診てもらえたのはラッキーだった。朝イチで行くよりも、10時11時めがけていった方が結局早く呼ばれるのではないかと思う。水虫こそ、成果が見えないけれども続けていることが重要なことの一つである。こういう手合いに負けるのはなんだか悔しいし、自分の中でも得意なことでもある。見えなくなってもやる、ただ、やる。今やるか、水を飲んでからやるか。ただ、それだけである。【その気持ちでやると、精神を病むぞ。】


頼もしい、一歩。


人の技、というものと、心に訴える力、というものの比較について考える。『蜜蜂と遠雷』では、明らかに技術という枠を超えた才能、「鳴らす力」というものに言及されている。今日、カラオケに行ったが、そこでは「正しく歌えるか」というよりも、「自分の中で歌に合わせて鳴らせるか」ということに注目したり、楽しんだりしている。スマブラもやっているが、ただ単にコマンド入力しているだけなのだが、魂の一振りのデンタルワイパー、ガーキャン上Bで、安定行動している中にはない、反転空後をヒットさせたバーストでの、魂の昇華を感じる。西武ライオンズは、8連敗の後に1勝、その前の試合で中心選手の涙のインタビューがあり、その上で臨んだ試合で勝つ、これも魂を感じる。

魂だけでは勝てない。技術があっても勝てない。技術は必要。では、確かに感じる魂とは何なのだろう?答えは全くないが、少なくとも、魂はないと、おもしろくはない。意外と技術が高くてもつまらない試合もある。でも、おもしろい=魂をかけても、負ける時は負ける。そもそものレベルが高い場合はなおさらだ。では、技術と魂、どちらを高めるのか?また、それを高めるために効果がある方法は何なのだろうか?

......どうしてこんなにやる気なんだろう。これは、老子の言葉と書をセットにした本を見たからかもしれない。ただ、なんとなくだが、闇雲に、がむしゃらに、がんばろうというカンジはしない。ただ、毎日本を読み、簿記をやりこみ、ゲームで遊ぶ。それが幸せだ。


頼もしい、一歩。

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