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マックで『蜜蜂と遠雷』を読む。いやー、第三審査、めちゃくちゃアツい展開だ。天才と準天才と秀才の、それぞれの目線から見たコンクールへの取り組み、それぞれのコンテスタントの見え方、そして審査員の目線と、ものすごいヒリつく芸術と勝負の世界を描き切っている。これをかっこいい、かわいいにキャラを変えれば、少年ジャンプにもっていっても成功するだろう。それくらい、普遍性があって、盛り上がって、流れとして自然だ。何だったらマンガ化してやりたいくらいだ。

毎日、『ずん喫茶』を子どもといっしょに見ている。コーヒーを軸に、店、人のよさ、歴史、穏やかさを同時に感じることができる、めずらしい番組だ。自分が食べて飲んで、ゆーっくりしている気分にもなれる。ずーっと続いてほしいなぁ。ナポリタンがあまりにもおいしそうだから、自分でも作ってみた。ケチャップと、バターを後入れで入れると、コクがマシマシになるのでとってもおすすめ。レトルトのパスタを卒業するにはうってつけのメニューなのだが、誰もナポリタンから料理をやってみろとは言わない。焼いたり揚げたりするより、何倍も再現性があるのに、なぜなのだろうか。

久しぶりにちょこっとポケモンができた。気持ちの上では確実によくなってきているのは明らかだ。妻は逆に、あまり調子がよくないらしい。全てはバランスで、全てが上向きになることはないのかもしれない。


頼もしい、一歩。


スプラトゥーン3、勝てない。デンタルワイパーをルールによって使い分けているが、確定一発の範囲的に、詰めてよし、塗り範囲的に間を取ってよしと、なんでもできるからこそ、自分の編成と相手の編成で何をやらなきゃいけないかが変わってくると思っている。自分が短射程だらけの場合は、塗りメインで詰める道を作ってあげる意識の方がいい、ような気がする。逆に長射程だらけの時はイカニンジャやスニーキングを使って一確を狙いに行く方がいい、ように感じる。ただ、自分より詰める動きのない短射程使いや、なぜかポンポンデスする長射程使いがいる。どうしようもないとは言いたくないのだが、まぁどうにかできもしないのがキツいね。

ガストに行き、読書をする。『蜜蜂と遠雷』。長い。内容はめちゃくちゃいいのだが、長い。500ページ中300ページしか進んでいない。何日かかるのか。ただ、めちゃくちゃおもしろい。音楽のことなんて全くわからないのに、それをこえるおもしろさがある。それぞれの主人公が、何らかの代表として設定されていて、様々なケースにあてはめられそうな普遍性がある。

しかし、平日昼間のガストは、売り込みをする2人組スーツが、自由な格好をしている自営業者にセールストークをかます地獄がそこここで見られる。あと、「トイレ清掃中」の看板が30分以上貼ってあって、あれは外し忘れだな。人の粗探しは得意だが、粗を指摘はしないタチなので、心のおだやかさには定評がある。外出が増えてきたのは非常によいこと。この調子で、明るくいきましょう。


頼もしい、一歩。


妻が休みだった。それに気づかず、朝にせかしてしまった。申し訳ない。まぁさわやかに出て行ったのでよし。モンシロチョウのアオムシがもう一匹動きを止めたが、どうも糸でくるまっているわりにサナギにならないので、いまいちうまくいっていないのかもしれない。もう少し見てみよう。3匹の内、最後の1匹もやたら長いアオムシになっているので、そろそろサナギになるかもしれない。大人になるのが見られるのも、もう少しかもしれない。 

『ラテラルシンキング入門』を読む。『ラテラル』とは、水平、平行というような意味であり、従来のモノをブラッシュアップする「ロジカル」と一線を画すものであるようだ。この思考法によって成功した例が、創作、現実問わず載っているのだが、全体として中学生がわかるくらいの難易度で書かれていて、わかるけど退屈、という感がぬぐえない。大事ということは伝わるが、それ以上のものがなかった。実家に今日は泊まるが、なーんにもしなくていい感がすごい。整頓されていないけど、モノの位置がちょうどよい気がする。ネコも手荒く歓迎してくれた。自分で大きいかごをすっぽりかぶったネコを助けたら、ネコパンチを足にしてきた。まったくもって人の気持ちがわかっていない。

明日もアパートから実家の間を運転する予定だ。車の運転、実際めんどくて一週間やっていなかったが、まあ大丈夫だったな。眠気すらなくドライブ。とっとと食べて、とっとと寝ることにしよう。


頼もしい、一歩。


図書館へ行く……が、9時からやっていると思ったら10時からだった。7時間しか開いてないやんけ……。仕事としてラクすぎて草。しかもチャイム鳴ってたし、学校やんけ……。

『DEATH』の続きを読む。この本、自サツを語る時に、合理的に言えば肯定されうる、というのは勇気のある展開だな、と思った。ここと相対せずに流すのが普通の本だが、この本は普通を乗り越えている。基本的には、先を完全に読み切ることはできないので、自サツは肯定されない。だが、治る見込みの方が少なく、それが長期に渡って続き、生きている苦しみが喜びを上回った時、初めて自サツが合理的になってくる。しかし、それはもはや安楽死とかの問題になってくると言わざるを得ない。もちろん、もっと突っ込んで論を重ねているが、30代の自分として考えるべきはこの辺で終わりで、重要なことは、さすがにまだ全てに絶望するには早すぎるなぁということだ。まあいつしか、残り人生全てかけても、おおよそ喜びを苦しみが上回ることがなくなって、自サツはなんだか合ってないなぁってなりそうな気がしてくるが。

ポケカGBでは四天王に入ったら一気に難しくなって爆散した。ファイヤーサンダーフリーザーのスペックが高すぎてキツい。無進化で出しやすいし、ポケパワーでフィールドにちょっかいかけてくるのウザすぎる。あと、草+ヒトカゲはあまりうまくいかなかった。やはりベロリンガの方がよさそう。まぁ目には目を、こちらもファイヤーを使えばいいという話もある。リザードンをぶん回せば勝てる。

明日、医者に電話だけはしよう。


頼もしい、一歩。


夕飯のカレーをもう作っていたので、時間を考えずに歩いて図書館に行く。『生きているけど、死ねもしない』みたいなタイトルの本があるかなぁと思ったらちゃんとあった。大学教授になった哲学者の人が、4人の若者と対話する形式で流れていく。生きる気力が湧かないが、死ぬ気力もない、ひたすら問答を見ているだけで、自分がどうなるか、心が変わっているような気も起きない。今、ふり返ってみても、何も心に残っていないことが再確認できた。結局、生きていたら何かの目的や目標に当たる、というのが結論っぽいもので、もしこの考えを突き詰めたいのなら、大学教授になるしかない、ということでしか、記憶に残っていない。

『DEATH』という、イェール大学で23年間、最も評価の高い講義という触れ込みの本も半分くらい読んだ。死というものの、全てを考えた上での公平な考えを書き連ねられている。人生の意味については、後半で語られるようなので、もう少し読み進めなければならない。

夕食に玉子とウインナーを焼いて、子どもと妻に食べてもらう。なぜ、生きるのか。ちっぽけな人間の、ちっぽけなよろこびに、果たして意味はあるのか。今は、どう考えても意味がないとしか思えない。もちろん、幸せを追うこと、成長し続けることが意味あることだと、心から思えるのなら、それでいい。けれど今は、くだらないヒトの、くだらない生において、どんな生き方をしても同じだろ、と思う。料理も風呂掃除も頑張っている。生活を頑張れるのは、病気をどうにかすることができているからなのだろうか。とっとと、安定したい。自分を信じたい。


頼もしい、一歩。

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